ネオサイエンスフィクション

自分の言葉で「好き」と言え

電子の海に流すには、取り繕うのをやめられない

 

こんにちは。今日はいい天気でしたね。

 

電車に乗る距離のバイトがなくなり(元々産休・育休でいなくなる社員さんの穴埋めだった)、本当にこの町だけで自分の生活が済むようになってしまいました。

そうしたら、気軽に人に会えない状況のためか、このフラストレーションを晴らす方法が分からなくなりました。

金もないから飲食店でお茶や酒を楽しむような気にもなれなくて、またひとりで飲食店に入っても落ち着かない気がして、この2km圏内から積極的に出ない生活をしています。

負け惜しみかもしれないし、期待したことから期待通りのものを得られないのが怖くて出かけないのかもしれない。

 

誰と話してるの?

 

今日は天気がいいと知っていたから出かける予定を立てた。諸事情によりぽしゃった。楽しみにしてたからとても悲しい。町の外に出る用事もないし、用事がないと出かけない私の行ける範囲には、水しかない。だだっぴろい水。先ほど散歩ついでに見てきたが今日も水平線が綺麗だった。でも本当はは緑があるところに行きたくて、だからお願いしてたんだけど、ぽしゃった。それだけなんだけど、自分の中でうまく解消できなくて、こうやって、ぐちぐちと。手帳には毎日のページがあって、そこに書き残すこともできるけど、筆跡は案外いろんなものを映し出してしまうのであんまりこういうことを直筆で書き残したくない。その点電子はいい。全部フラットになる。ブログやらツイの壁打ち垢やら様々に書き残してるけど、あれはいい。あとから見たら全部フラット。でもたまに読み返すと、フラットさゆえに今の自分にそのまま響いて、また悲しくなる。

 

よくわからない。自室が片付かない。リビングも片付いてないね私の仕事なのに。あとでやろう。夜ご飯つくったついでに。今日はいい加減冷凍してある手羽元を使わなければまずいので、あれを使う。それもつくるけど、もう1日何も口にできていない人間に対しては負担だろうから、何か別に作る必要がある。やわらかく煮たうどんは鉄板だが、鉄板ゆえに「そんなものでいいのか」という抵抗もあるけど、考える力もないので、煮込みうどんでいいだろう。豆苗しか青菜(青菜と分類していいのか?)がないがどうしよう。ふつうに煮込みうどんを作って、上に野菜の卵とじを載せるとかどうかな。それ美味しそう。そうしよう。しかし卵とじ、理想のように作れない。たぶん毎回たまごに対して具材を多く用意しすぎている。卵くらいけちるな。物価の王様だぞ。

 

ようは参ってるのだ。この時勢に参ってたところにもうひとつ人生のウィークポイントを思いきり殴り抜かれたのでもう参ってるんだ。参るの最上級の表現ってなんだろう。潰れる?まあなんでもいいや…。表現が見つかったところで別に助からないのだ、誰も。

 

困難は越えられる人のところにしか来ない、と私に言ったあの時の先生、お元気ですか。その言葉を選んでくれた先生のお心にはとても感謝しています。でも私は、素直にそれを受け止められるような人間にはなれず、今も負担はただただ負担としか感じられないのです。本当はとても恵まれた生活をしているのに、静かに堕落して毎日を殺して自身は死んでいます。100と0しか知らないのです。「ものすごく頑張る」と「堕落する」しか私には理解できないのです。「がんばらない生活」ってなんでしょう。「ものすごく頑張った生活」を自らは達成できることを知ってしまっているからでしょうか、難しいのです。すべて100%で達成できないならばそれは「何もしていない」と同じなのです。ここまでのことをそのままそっくり他人に言ったら酷い暴力になると感じられる力はあるのに、自らには平気で言えるどころか、「これでも足らない」のです私めには。努力はこの人生の始まりから今に至るまで、いつだって足りていないと感じています。でももう、やりたくないと嘆くのです。分からなくなりました。もともと何も分かっていなかったのに、分かったふりをするのが上手かっただけかもしれません。あるいは、何も見えていなかったか。どちらにせよ、その頃の方が良かったに違いないと盲信する程度に弱っています。私も助かりたい、私「こそ」救われるべきだという邪念にずっと憑りつかれているのです。思いきり泣きたいですね。こんなにぐちぐちとごまかさなくとも、それで解決するのかもしれません。

 

いつでも正気を保てる方法を、随時募集しています。